大宅壮一の後悔
1970年(昭和45年)10月下旬、大宅壮一は息苦しさを訴え、新宿区の東京女子医大に担ぎ込まれた。
雑誌「潮」の編集者が病床を見舞った。
ベットの上で大宅は、封印していた過去を静かに振り返り始めた。
「私は「潮」との付き合いを通して創価学会を知った。今になって思えば、大変にすまないことをしたと思うことがある。」
天井を見上げながら、苦い記憶を絞りだすように言葉を継いだ。
「昭和30年代半ばのことです。全日仏(全日本仏教会)の幹部が泣きついてきた。
「最近、創価学会という宗教が勢いを増して、我々の信徒がゴボウ抜きのように取られている。
このままじゃ、たまったもんじゃない。創価学会は、こんな嫌らしい宗教だ、と言えるような話はないだろうか」と。
そこで、うちの若い衆に聞いてみたのです」
若い衆。大宅グループと呼ばれた「ノンフィクション・クラブ」の若手ジャーナリストたちである。
「「創価学会は葬式で香典を持っていく」「位牌や仏壇を壊す」というのはどうか、となりましてね。根拠は何もなかったんだが・・・・。
これが全日仏を通して、一斉に全国に広がってしまったのです。
言論人として、本当に申し訳なかった」
大宅さん、今頃詫びても遅いじゃないか。編集者には思い当たることが会った。
学会は池田第三代会長が就任し、破竹の勢いだった。やがて、どこからともなく「香典泥棒」「暴力宗教」のデマが流れてきた。長年、不思議でならなかったが、その謎が解けた。
「火のないところに煙を立てる」
大宅に傾倒した若手がその煙の出所だった。
巧みなキャッチフレーズ駆使して、戦後ジャーナリズムを牽引してきた大宅グループ。贖罪の告白を終えた大宅の顔には、
無念さが重くのしかかっているように見えた。
入院から一ヵ月後、大宅は息を引き取っている。

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